活動報告

黒潮を超える:与那国からの挑戦

活動報告2024/06/29

黒潮を超える:与那国からの挑戦

ボーダーツーリズム推進協議会発足時よりのメンバー(正会員)である沖縄与那国町で企画財政課長・産業振興課長などを歴任された小嶺長典さんのエッセイです。小嶺さんは、ボーダースタディの多くの分野で与那国町から発信を続け、現在は中央学院大学(千葉県我孫子市)社会システム研究所の客員研究員としても活動されています。
 プロジェクト研究「危機の中の境界地域―稚内・根室・八重山列島を事例として」の一環で同大学のホームページに掲載されたエッセイの全文です。

黒潮を超える:与那国からの挑戦

 今思えば、与那国島を「国境」という概念で特異性を意識し始めたのは中学1年生の頃だった。その頃、カンボジア、ベトナム、ラオスのインドシナの三カ国で社会主義体制に移行したことで、この体制に馴染めない人や迫害の恐れがある人が難民となり国外へ脱出した。この三カ国からの難民の中でベトナムより船で脱出したいわゆるボートピープルとして、難民が初めて日本に上陸した地(定かではないが)が与那国島であったと聞かされている。

 私の記憶が正しければ、島の東側の崖下の海岸に漂着し隠れていたのを島民により発見され公民館へ移された。私も子供ながらに興味本位で公民館にのぞきにいった。30人弱だったと思うが、全員公民館の床に座り込んでいて島の住民に対しても警戒しているような表情だったことを覚えている。島にフランス語が少ししゃべれるひとがいてその時の対応をしていた。そのひとは佐々木のオジーといって戦前東南アジアあたりでも生活していたと事もあるようで、フランスの旧植民地政策は東南アジアにも及んでいたことからフランス語が話せたらしい。その佐々木のオジーの話によると、といっても直接聞いたわけではないが、最初発見された時「この島に国境警備隊はいないのか」と問われたらしい。

 こういった状況に「この島はこういう場所に位置しているのか」と子供ながらに考えたものである。危険だとか怖いとか恐怖を感じたわけではなく、この島は普通の島ではないというか少しワクワクした気分になった。小さな島の中にいると、沖縄のたくさんある島々の中でもどこにでもある何の特徴もない普通の島だと考えがちであったことから、この出来事で島の立ち位置が普通ではないと考えるようになっていった。
小さい頃から、戦前、戦後しばらくまで台湾と行き来してきたことや、いわゆる闇貿易のこととかを聞いており、また、台湾のテレビ放送でマジンガーZやガッチャマンを観ていたり、台湾のラジオが何局もあってうるさく日本の放送がちゃんと受信できずにイライラしたりしていたことを思い出す。

 時には集落前の砂浜で遊んでいると海上保安庁のヘリが飛んできて「ここは日本の領海です、出なさい」と沖合の船の周りを旋回しながら日本語と中国語で警告しているのを何度か見かけた。その時は、台湾漁船よりもなかなか見ることのないヘリコプターの方に興味があり、台湾の船が島の周りにいることはなんら不思議でなく、台湾は台湾であり、外国であることすら意識することはなかった。そういうこともあり、台湾以外の外国との関わりが新鮮であり、その時から「海のすぐ向こうは外国なんだ」という与那国は国境の島であることを意識するようになった。

 さて、日本最西端の与那国島は東京からみると直線距離で約2,100キロと有人離島では最も遠い島ではあるが、台湾までは約110キロと国境に接している島である。当然の如く、お隣の台湾とは関係が深く、戦前・戦後そして現在に至るまで台湾は島発展の重要なキーワードである。与那国と台湾の関係は戦前・戦中にかけて親交があり、基隆(きーるん)や台北、宜蘭(ぎらん)県の蘇澳鎮(すおうちん)等を通じて、現在の花蓮市との交流に至っている。戦中(1933年頃)には「琉球村」と呼ばれる沖縄からの移住者が暮らす集落が形成されるなど、活発な交流があった。

 戦前、与那国島は東洋一といわれた鰹節工場があり(私の母方の祖父も鹿児島からこの仕事の関係で島に移住した)活力のある島として発展し、その頃、与那国島にとって日本の統治下であった台湾は、仕事、買い物、修学旅行の行先というように日常生活の場であった。戦後は台湾との密貿易の中継基地として人、物、金が島に集まり、昭和22年には流動人口も含め約1万2千人まで膨れあがった。しかし、その人口も戦後の動乱期を過ぎ、国境線が確定すると同時に台湾との交易が困難になり、動脈が切れたかのように人、物、金の流れがストップし文字通り端っこの島となった。その後の島の衰退は言うまでもない。

 与那国町は1982年から台湾・花蓮市と友好姉妹都市提携を結んでおり、2022年には締結40年を迎えたことを契機として、訪問団を結成し島から直接台湾へ船で乗り入れる計画であったが、コロナ渦の影響もあり計画は休止となった。35周年の時も台湾東部大地震で中止となるなど、40年間の経験を通じて外国との交流は一筋縄ではいかない事もよく理解している。
地理上も、歴史上も深い関係にある台湾へは、これまでも様々なアプローチを仕掛けてきた。しかし、晴れた日には年に数回ほど島影が望める近さにある台湾も国際政治的には遠い存在である。与那国には、国際港として開港した港がひとつもなく、当然CIQ(税関、入管、防疫)の施設や体制が整っていないことも要因の一つである。

 そこで、与那国が困窮を打破する打開策として、「国境交流特区」構想を2005年と2006年に国に対し申請してきた。結果は、残念ながらほぼ不可として退けられてきた。そのことから、作戦を変更しチャーター便を飛ばすなど、台湾との直接交流の実績を重ねてきたのである。そして、2019年より開港が難しいのであれば、不開港のままで制度的に与那国から外国への入出港ができる可能性の調査、そして台湾との間の高速船就航実現させる事業を実施してきた(事業の内容については別の機会に譲りたい)。

 これまで、国同士の特別許可により特例的に与那国へ直接船が入港した事例は幾度かあったが、あくまで特例である。私たちは合法的に入出港できることが、これからの与那国にとって重要な意味を持っていると考えている。今回の事業の中で法的になんとかクリアできることが示され、船舶による直接入出港の道が開けた。

 しかし、肝心の国際航路の基準を満たした船舶が国内で見つからず、かわりに台湾で船舶を見つけ今年4月には社会実験として与那国―台湾間を船舶による往来が実現する予定であったが、船舶会社の都合により契約の締結がかなわずこの社会実験も残念ではあるが中止となった。
しかし、手続きを経れば、開港していない与那国からも船舶による入出港が可能であることが示されたことは今後の展開にとって大きな意味をもつ。
 混沌とした時代の中、5年後、10年後がどうなっているのか予測するのは難しい。ただ、自衛隊誘致により人口減少にそれなりに歯止めがかかったが、新たな産業を興すなど何かしらの対策をとらなければ人口減少へと転じていくことは明白であり、自治機能を維持していく上で必要な限界値に近づいていることは確かだ。

 島の特徴として、経済、文化、行政など全ての面においてこの島が様々な中心地(八重山圏域、沖縄圏域そして日本全体)から距離があること、面積、人口、市場などの規模が小さいこと、さらに台風などの自然災害を受けやすく、農作物被害、空路や海路の欠航、それによる観光客のキャンセルなど経済活動が外的環境として常に左右される負の要因があげられる。
 逆に、孤島であるがゆえに面積の割に固有種が多いなど特有な自然生態系があり、他地域との交流が少なかったため独自の文化、歴史、風土が残っているなど優位な面もある。さらには、すでに述べたように、国境に接しているという特異性があげられる。

 それらをふまえ、領土、領海、EEZの保全のための「安全・治安の確保」「離島地域の保全」「定住促進のための産業振興」「海洋環境の保全」「国際交流」などをどのように制度化し、具体化していくのかが今後の課題であり、その一つとして国境交流の推進がある。
政治的に日本との国交がない台湾とりわけ東海岸側は、与那国を含む八重山諸島を沖縄本島や本土進出への足がかりにしたい思いもあり、台湾側にも与那国との直接往来はメリットがあると期待している感がある。こうしたメリットを双方が認識すれば交流は進み、かつてのように大きな広がりを見せることも夢ではない。
 国の制度の高い壁を打ち破るべく、実現に向けて模索中であり、タイトルの「黒潮を超える」の“超える”は直接往来のことだけでなく、法的にも乗りこえたい思いも込めている。与那国空港から飛行機に乗るとわずか30分、高速船を使えば約2時間から3時間で台湾へいくことができるという地理的利点を生かし、この「近くて遠い」台湾へ与那国島からいつでも自由に往来できるよう、日本の西の端の玄関口を目指している。

黒潮を超える:与那国からの挑戦 2

村営船"帆安丸" 昭和13年に就航し台湾航路の主役となった。
※写真提供:与那国町史写真集(沈黙の怒濤)より

黒潮を超える:与那国からの挑戦 3

戦前東洋一といわれた久部良地区の鰹節工場
※写真提供:与那国町史写真集(沈黙の怒涛)より

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