活動報告

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お知らせ2019/09/09

サハリン北緯50度を歩いて渡る~元国境の旅~(後編)

・ボーダーツーリズム推進協議会(JBTA)事務局長
[ビッグホリデー株式会社 仕入手配部 部長 根岸文男]
 ※青字をクリックで画像を閲覧できます。

(つづき)
※(画像キャプション)
※[No-18_チハヤ海岸の帆立] / [No-15_樺太庁鉄道線名残の枕木]
※[No-16_ウズモーリエ駅前のカニ売り] / [No-17_チハヤ海岸テントでの食事風景]

次に訪れたのはスタロドプスコエ(栄浜)。樺太庁鉄道線。栄浜 スタロドゥブスコエ駅。今は鉄道の枕木が当事の名残を残す宮沢賢治ゆかりの地でもある。宮沢賢治は1923年、27歳の時にこの地を訪れた。花巻農林学校の教師として、農業の学生就職斡旋の為である。だがそれは、表向きの理由で、当時24歳の若さで亡くなった、彼の妹トシさんの供養が本来の目的であった。彼は妹トシの魂がはるか北の果てへと飛んでいったと考え、妹の魂が居る北の果て北極星に一番近い場所、日本で一番北の場所、当時鉄道で行ける最北端の地で、鎮魂の為に妹の霊と交信をする事が目的であったという。
尚、明治期 横浜などから樺太へ向かう樺太航路(高麗丸)があり、これもボーダーである。又、北原白秋のフレップ・トリップ に大正14年の旅の様子としても、書き起こされているという。
次にドリンスク(落合)を訪問。 この地は日本時代、王子製紙系列の富士製紙落合工場創業とともに発展。又、かつて大韓航空機撃墜事件のソ連軍用機は、この地にあった大谷飛行場から飛び立っていった。それは1983年の出来事である。領海という国境についても考えさせられる時間であった。
食に関して、ウズモーリエ(白浦)駅前のカニ売りはサハリンの名物でもある。ボイルされた大きなタラバカニが一杯、日本円で約¥1,200とリーズナブル。味も良い。海峡を挟んだ北海道でいただくなら、恐らく0(ゼロ)がひとつ必要ではないだろうか・・ (札幌あたりの相場は1万円前後?)。更に翌日はチハヤ海岸にて、当日水揚げされた新鮮な、生のタラバガニや花咲ガニ、牡蠣や帆立もいただき、サハリンの味覚を満喫した。

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※[No-21_ソ連戦勝記念碑]
※[No-19_旧日本軍幹部住宅] / [No-20_千島樺太戦没者慰霊碑]

その後も、上敷香の旧日本軍幹部住宅、旧敷香駅の防空壕跡、ポページノ(古屯)の樺太千島戦没者慰霊碑ソ連戦勝記念碑、日本軍 トーチカ跡、日ソ友好平和の碑(日ソ有志による建立)、ブリゴロドロエの日本軍上陸記念碑(1905年日露戦争時、南部コルサホフの町を1か月で陥落)、大泊飛行場(1945年7月完成、当時の最新設備を持った飛行場だが飛行機を飛ばすこと無く終戦、今はロシア軍が利用)と戦跡群を巡ったが、やはりこの旅のハイライトは、『北緯50度 旧国境石碑台座 (天3号)』である。ポーツマス条約で北緯50度以南が日本の植民地となった歴史の1ページであり、当時の日ソを隔てる国境標識を支えていた台座を跨いで超える体験は、平和な今だからこそ経験できる非常に感慨深い瞬間であった。と同時に、当時樺太を南北に分けていた日露の旧国境線を歩いて通過するという貴重な経験もさせて頂くことが出来た。
又、王子製紙の工場跡が各地に残存するが、天然エネルギー資源も豊富なサハリン。コルサホフ(大泊)南部のプリゴロドロエでは、今や液化天然ガスプラントが稼動している。その6~7割は日本へ輸出、宗谷海峡を経て津軽海峡を通り、千葉の袖ヶ浦までタンカーで運ばれ、火力発電の原料として日本の各電力会社へ輸送されているという。人だけでなく、天然資源もボーダーツーリズムの旅に出ているのだ・・・。

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※[No-24_北緯50度線に立つソ連の戦勝記念モニュメント] / [No-25_北緯50度旧国境石碑台座]
※[No-22_日ソ平和友好の碑] / [No-26_日露戦争後の1905年から1945年まで、北緯50度線上にあって樺太を南北に分けていた日露の旧国境線を歩いた。]

■現情勢ではユジノサハリンスク・ハバロフスク・ウラジオストクといった極東方面において、日露経済交流の拡大を背景に、活発な交流の前進が見込まれている。特に2016年に、日露両首脳が合意した8項目の経済協力によって、ロシア極東地域への投資や新規事業が拡大している。又、航空業界でもANAが来春3月、ウラジオストクへ日本の航空会社として初めて東京(成田)からの直行便初就航を謳っている。今後JBTAとしても、理事の方々と協議しながら、記念ツアーの設定を検討する方向で進めていこうと思う。

[旅のデータ]
●名称 ロシア連邦サハリン州
●州都 ユジノサハリンスク(旧 豊原)
●人口 約49万人[ユジノサハリンスク市 約20万人]
●民族 ロシア系87%、韓国・朝鮮系5%、その他
●主要産業 石油等の資源エネルギー掘削・漁業・林業

[歴史背景]
●1855年 日露講和条約日露両国の共有地と定める
●1875年 千島樺太交換条約全土がロシア領となる
●1905年 日露戦争勝利ポーツマス条約で北緯50度以南が日本の植民地、「樺太」となる
●1945年 終戦ソ連の占領。日本人引揚開始
●1951年 サンフランシスコ平和条約日本の樺太領有権の放棄以降ソ連(ロシア)の支配下となる
●1989年 サハリン対外開放外国人の立入りが解禁される

〈留意点〉
滞在中に注意する事項として、写真撮影の制限がかかる事。主に写真撮影が禁止されている箇所として、軍事関連施設や空港、港湾施設、税関検査施設、水力発電施設、鉄道分岐点、トンネル、鉄橋、陸橋、工業施設、科学研究施設、放送塔、放送局、電信電話局、工業都市の遠景などがあります。また、撮影に許可を要する主な場所としては、農場、駅、空港、河川港、官庁建物、教育機関等が挙げられます。
その他、パスポートの常時携行。外国人は常時旅券を携帯するよう法律で定められており、警察官等によりパスポートの提示を求められることもあります。

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※[No-28_ガイドで写真家の斉藤マサヨシさん] / [No-23_横たわる日本軍上陸記念碑]
※[No-29_北海道新聞岩崎記者] / [No-27_プリゴロドロエの液化天然ガスプラント]

●今回の現地同行ガイド: 国境写真家「斉藤マサヨシ氏」【斉藤さん近影】
・斉藤マサヨシさんは、間宮林蔵の足跡を訪ねて、サハリン州をくまなく取材されており、地域に精通した樺太研究者です。主な取材旅行として稚内周辺、サロベツ、利尻島、礼文島、知床。ロシア(主にサハリン州)へは1992年以降、23回の取材旅行の経験。1955年北海道稚内市生まれ。稚内市役所に勤務、後に写真工房主宰。

●今回のツアー同行取材:北海道新聞社 稚内支局 岩崎志帆 記者【岩崎さん近影】
(おこがましくも記者の方に逆取材をさせて頂きました)
Q:今回、このツアーに参加された狙いみたいなものを教えて下さい。
A:「私は稚内支局に勤めている記者なので、稚内の北都観光の米田さん然り、今回のガイドを努めている斉藤マサヨシさん然り、そういった稚内の人達がこうロシアの人との人的交流で今回実現したツアーを世の中に発信して、もう少しサハリン航路が途絶えた今でも、稚内とサハリンとの繋がりみたいなものがあると発信したかったからです。」

Q:国境地域の相互交流や活性化について思うところはありますか?。
A:「稚内に住んでいて思うのは、年に4人とか高校生のホームスティの交流事業はあるが、99%の市民がサハリンに行った事が無い人達。だが訪れて見ると似ている地域でもあり、共通するものは多いので、何かしら手段さえあれば、もっと気軽に安く行ける様な、買物であったり交流であったり、行き来できる仕組があると良いと思った。」 

Q:ボーダーツーリズムやサハリン観光のイメージを教えて下さい。
A:「ここに来るまでボーダーツーリズムのイメージがあまりわいていなかったが、北海道の道北地域・サハリンと人の生活スタイルが似ているが、文化の違いを楽しみつつ、同じところを見つけて、喜びを分かち合うような、人の交流ができたら、よりボーダ-ツーリズムという楽しみ方、普通の旅行とは全然違う、少しずつ北上するという楽しみ方もあるんじゃないかと思った。また改めて日本人としてあまり知られていない歴史をここに来てみると体感できるので、教科書通りではない歴史みたいなものが伝わると思う。」

(写真提供:著者 ※画像の転載・転用は禁止とさせて頂きます。)

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