活動報告2023/11/06
JIBSN2023標津セミナー参加レポート
今年のJIBSNセミナー(標津)に参加されたフリーライターの小林志歩さんからレポートが届きましたのでご紹介します。上の画像は筆者による「北海道東端、標津から羅臼へ。丘の上の展望塔から国後島を眺めた」画像です。
国境のまちで、過去と未来に出会う
~JIBSN標津町セミナーに参加して~by SHIHO KOBAYASHI
旅仲間のみなさん、お元気ですか。コロナ禍前の中国・ロシア国境ツアーでは、お世話になりました。
ロシア国境の街で地元の缶ビールを街飲みし、I先生に「警察に捕まるよ」と脅かされたあの秋から、早いもので4年。ボーダーツーリズム、2023年秋の行き先は、私の住む北海道・道東の標津。来られなかったあなたへ、学びと発見、出会いの2日間をレポートします。
旅は、どこへ行くかも大事だが、だれと行くかも大事。今回の旅仲間は、与那国、五島、対馬、稚内など日本の「端っこ」の9つの自治体の職員、そしてこのツアーの常連の大学の先生方や市民ら総勢30数人。
標津サーモン館のレストランで鮭ステーキを食べたあと、「秋晴れだし、外でコーヒーいいね」とベンチにむかう北海道内参加組に、竹富町の若き職員Tさんが「日差しの照りつける下で、座ってくつろぐなんて、地元ではありえない」と苦笑い。そうか、日光浴は北の文化なのだ。さらに、10月下旬としては暖かな日中の気温が、彼にとっては今年の最低気温だと聞いて驚く。今年って1月も含めて?「もちろんです。ダントツで」。日本の端っこでの異文化交流で、日常のバイアスに気づかされた。
初日のセミナーでは、「移住」「観光」をテーマに、日本の辺境(誉め言葉です)に位置する自治体から、地域の現状について発表。オンライン参加で、小笠原市と多良間村のお話も聞くことができた。遠路はるばる参集した皆さん、伝えたいことが満載なのに、司会者は「各人10分で!」。ちなみに、同じ北海道でも、稚内から標津は車で8時間かかるのだ。
長崎市の西方100キロの五島列島・五島市では、1915年に9万人以上いた人口が現在は3万4千人あまりに減った。「2060年の推計1万人余をいかに2万人に保つか。すべての施策が人口減少対策」と久保実・副市長。空き家をランク分けして登録する空き家バンクや、ベトナム人向け日本語学校を開設し、学生に給付金。35歳未満のIターン者への補助金は10年間、看護師や介護士、保育士にはさらに手厚い。
対馬海流にのって年間3-4万立方メートルにも及ぶゴミが流れつく「海ゴミの防波堤」・対馬市では、SDGs未来都市と銘打った海洋プラスチック問題への取り組み。国内外のベンチャーと協力し、再生利用に挑む。「自分事として考えてほしい」との地元の声に、私たちひとりひとりが向き合わなければ。
北海道の最北端稚内の西方59キロの礼文町は、ホッケとウニ漁が主産業。格安家賃の漁業者支援住宅を提供するほか、作業ボランティアをしながら暮らす「礼文番屋」もある。そのほか、紹介しきれないが、「わが町でもやってみては?」と思われる実践がいくつもあった。
後半は観光がテーマ。与那国は、沖縄本島から500キロ、石垣島から127キロ、台湾から111キロで、日帰り客が多く地元にお金が落ちないのが悩み。戦前から交易のある台湾とつなぎ、「人の流れを変え、挑戦する観光」を打ち出す。見方を変えれば、最西端はアジアからの入口となる。
西表島などに年間115万人の観光客が押し寄せる竹富市からはオーバーツーリズム対策を紹介。ツアー会社を組織化しエコツーリズム推進協議会が稼働、登録ガイド制に取り組む。
語られたのは、縮み続けるこの国の未来だ。留学生だけでなく、技能実習生ら外国人労働者も潜在的な移住者や観光客として、地域で優遇するといいのでは、と思われた。居眠りする暇もない、濃い2時間はあっと云う間に過ぎた。
セミナー後はお待ちかね、地元の郷土料理店「武田」にて、根室の会員から贈られた花咲ガニなど海鮮料理で懇親会。地酒や地ワインを飲みながら、ここでしか会えない皆さんとの語らいを楽しんだ。
2日目は、観光バスで標津を出発し、羅臼へ向かう。海岸沿いに細長く見える国後島がどんどん迫ってくる。元羅臼町長で、国後島生まれの脇紀三夫さんから、終戦直後の体験談を聞く。見たこともない大男が銃を手にわが家に踏み込んできて、親の後ろに隠れたときの恐怖感が忘れられないという。その後3年間の「混住」を経て、親戚を頼って羅臼へ引き揚げた。
ロシアの国境警備隊と最前線でわたりあった、元海上保安庁職員Yさんは、現在は北方四島の返還運動に関わる。「島を返せというけれど、返ってきたらどうする?ビジョンはあるのか」と脇さんに、直球の質問を。脇さんは、長い時間がたった今、またむこうに行って、新たに生活基盤を築くのは容易ではない、それでも「ふるさとを返してほしい。その気持ちは何ら変わらない」と決然と答えた。とはいえ、戦後80年近い歳月が流れ、現在の住民にとっても、島はかけがえのないふるさとである。
「元島民の体験はそれぞれ違う。多くの人の体験談を聞いてほしい」と脇さん。インタビューを映像として記録して配信するなど、「記憶」のアーカイブ化も進む。でも、かなうことなら、経験者の生の言葉を聞いておきたい。
浜のお母さんが実演する鮭のチャンチャン焼きの昼食後、知床横断道路ではヒグマの親子とご対面。大型バスの前で一瞬立ち止まり、悠然と道路脇に姿を消した。「ちょうど頼んでおいたタイミングですね」と添乗員のKさんのことばに、車内がどっとわいた。
羅臼の郷土資料館では、国後島で教員を務め、後の羅臼町長・村田吾一さん(1905-1993)が、昭和初期に島の最高峰・爺爺(ちゃちゃ)岳(1822メートル)で採取した白いコマクサの標本が展示されていた。
吾一さんは手作り本「国後 想い出いろは唄」に、「ネムロから島にわたるには 昔は石畳の波止場から船にのって」と記した。沖合い30キロメートル、いつも視界にあるが渡航のかなわない、ふるさとの島を見つめ続けた長い戦後。雲のむこうの爺爺岳に目を凝らしてみる。今も、コマクサの大群落が見られるだろうか。島から、こちら北海道はどんな風に見えているんだろう。オンラインで島のロシア人住民とつないで聞いてみたい。
田村慶子・NPO法人国境地域研究センター理事長によれば、このツアーの意義は「境界地域を訪れてそこの空気を吸って、生の声を聞く。中央の政策に振り回されないために」。
来秋の開催地は与那国。北海道からは、ちと遠い。待てよ、台湾経由なら…行けそうな気がしてきた。
長い手紙になりました。ではまた、国境のまちで、お会いできますように。
※羅臼町郷土資料館に展示されていた古い写真「最初の観光団 昭和10年撮影」。旅装の男性と標津・羅臼間を運行していた幌形フォード、志賀旅館の仲居さんたちが写っていた。